「彼ら」との出会いから「わたし」は「わたしたち」となるのか?

  • 2014.09.12 Friday
  • 13:34
 最近、個人と全体、ということについて何度か思うことがあり、『1Q84』を少し読み返しました。

 (天吾)の最初の章を読んでいて、さっそく気づかされることがありました。
その章は、たぶん1歳半の記憶だと彼自身が推測するイメージが突然やってきて、発作のような症状に見舞われる、そういう場面から始まっています。
 その出来事のシークエンスの最後は、こう終わっています。
「これを見ろ、と彼らは言う。これだけを見ろ、と彼らは言う。お前はここにあり、お前はここよりほかには行けないのだ、と彼らは言う。そのメッセージが何度も何度も繰り返される。」

 いわゆる潜在意識からの訴えを語ったこの文章の、その「潜在意識」の人称が複数形なんです。
「おまえ」でもなく「きみ」でもなく「かれ」でもなく、三人称複数形なのです。

 このことに、ものすごく示唆を受けました。

 そこからこうも思いました。
「わたし」という顕在意識、これが自分だと思っているものも「わたしたち」としてみたらなんだか色々なことが辻褄合う気がして来るようです。

 あらためて、個人と全体(社会や組織と言い換えてもいいが)、その関係のあり方を見ていこうとするときに、なんとも見晴らしのいいところへ連れて行ってくれたことでしょうか。

 そもそも「わたし」という個人は、社会や世界や会社や地域やと相対しているのでしょうか。
 もしかしたらそれは、天吾くんが「彼ら」ととらえた潜在意識の投影とも考えられないでしょうか。
 
 その「彼ら」ととらえられた潜在意識の集団は、これまでのさまざまな場所と時間に起きた出来事の総体で、それが気づいてくれと言わんばかりに、こころのスクリーンに投映して見せてくる、そんな気がしてくるのです。

 そして、こうも感じました。三人称複数形というものは、一人称単数形からもっとも心理的に遠い存在のような気がします。
内なるもう一人のわたしは、そのようにとても遠いところにいる、顔の分からない何者かであるということを思うと、とても切なくなるのでした。

カウンセリングあるいはセラピールームとヘルパーステーションの類似点と差異

  • 2013.03.28 Thursday
  • 23:58
あるとき、生きづらくなった人が、彼が生きる生活圏からどうにかして離れ、カウンセリングルームやセラピーサロンと言ったところにやってくる。

そこでは普段彼が生きている社会通念をいったん無効にするようなあらたな世界観が待っていて(シャーマニズムと呼ばれるものに似ている)、これまで出口のないと思われた世界観を相対化してくれるような体験が与えられる。

そこで認知や身体性が更新されることで、再び戻って行くこれまでの日常が違ったものになる。
そのようにして彼は「生き返る。」

世界は変わらないが、彼自身に変化があって彼の苦しみや行きづらさは解消される。

そのとき世界は本当にそのままで変わっていないのだろうか。
きっと彼に接する世界の側が、彼の変化によって変わっていくだろうと思われる。

こうして結果的に、セラピストやカウンセラー、ヒーラーと呼ばれる人々は世の中を変えていっていると言える。
世の中に社会運動として働きかけることなく、世の中を変化させていっているとも言える。


こうした働きかけ方が、今自分が勤めている訪問介護の事業所、一般にヘルパーステーションと呼ばれるところでのサービス提供責任者と呼ばれる職と似ているところがあるなと思った。

このサービス提供責任者(通称サ責)と呼ばれる職種は、ヘルパーさんが爺ちゃん婆ちゃんのお宅にお邪魔して行なう介護内容のコーディネートや手順を整えたり、スケジュールを作ったり、サービスをフォロー・モニタリングしたり、ヘルパーのスキルアップのために勉強会を開いたり、などなど。
そしてまた、仕事の悩みやケアの相談、ケアをやっていて感じたことの話し相手にもなる。

ステーションという名の事務所は一種の井戸端と化し、
そこでデスクにいるサ責はパソコンの画面に向かってヘルパーに業務メールを打ちながら、
同じ空間にいるヘルパーの話しかけにも耳を傾け、
爺ちゃん婆ちゃんの情報を聴きとり、
ヘルパーの質問に答え、
悩みを整理し、
次の訪問へと繋げられるようにと話をする。

そこまで怒濤なことはしょっちゅうないけれど、そんなことをしていると言えばしている。


はたしてそれはなんのためかと言えば、ヘルパーが伺う先にいる爺ちゃん婆ちゃんの生活の充実、ひいては人生の充実のため。

老人ホームのように同じ建物の中にいて、ヒョイと顔が見に行けるわけでもなく、現場はステーションの外にある。
そこで行われるケアというサービスの結果、充実した生活が生まれるようにするには、ステーションへ立ち寄ったヘルパーさんとの関わり方によって、ヘルパーさんの世界が変化を得て、その変化が利用者さんにも生活の向上という変化をもたらす。そんな間接的に世の中に変化をもたらすというところが、セラピストのような仕事のあり方に似ていると思った。


違うところは、あくまでセラピストは目の前の一人の人と関わった結果、世の中にも変化をもたらすだろうということで、一方サ責は世の中にいる利用者に働きかけるために、ステーションに来たヘルパーさんに関わるところ。

ここでの自分の違和感は、この視点だとヘルパーさんとの関わりが道具的な感じのするところ。

でもきっと、道具に対する考え方ももっとヴァージョンアップできるんだと思う。
民藝という考えから得たことで。

「無機物ではなく有機物としての道具」、そんな視点で。

そしてまた、有機体であるこのからだのように道具を捉えられたとき、
先のヘルパーさんへの違和感はどう変化するだろうか?
自分のからだの延長として感じたりするのだろうか?

そして、双方向的にこの体は感じ方はどう変わるだろうか?

お礼参り

  • 2013.03.26 Tuesday
  • 00:49

今から8年前の春、四国でお遍路をしました。
四国四県にある88のお寺を巡り歩くあれです。

そのときに出会った友人のYくんとは定期的に会って、人生遍路の報告をし合うような仲の友人です。

その彼と浅草で久しぶりに会って飲みました。
いつも浅草で呑む時は、まず浅草寺にお参りしてから目当てのお店に入るのだが、今日は桜を見に墨田川沿いに出てそれぞれ座禅や瞑想をし、そのあと桜の花びらを少しいただき、浅草の町を歩いて鳳神社へ行き、それからまた浅草寺に向けて歩き、途中で気になった神社をお参りし、再び浅草寺に帰って再度お参りしました。

これまで浅草より少し北の三ノ輪周辺にある訪問介護の事務所に勤めてきましたが、この3月で任を解かせてもらうこととなりました。

介護、特にその人の生活圏である家に上がりこんでケアするというヘルパー業が、僕の中では遍路で立ち寄る寺に足を踏み入れお経を唱える行為と重なって面白いものに位置づけられてきました。

そんなお遍路を終了したあとに、「お礼参り」といって高野山に行き、空海さんに無事に巡れたことを感謝するという習わしがあります。
僕もお遍路が終わってすぐには行けませんでしたが、一年越しに空海さんにお参りしに高野山を訪れました。

今夜、浅草周辺の寺社を巡ったのも、「お礼参り」だなぁと歩いている途中から思いました。
そして今後も会社のみんなが楽しく仕事ができますようにと神様にお願いしたのでした。
そう想ったら肩の荷が軽くなっていました。


居酒屋で頼んだ酒に、さっき少し摘ませてもらった桜の花びらを浮かべ、いただいたらとても優しい味でした。

最後に餞別でお店のおかあさんたちに寄せ書きしてもらった枡をいただきました^^

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春分の再スタート

  • 2013.03.25 Monday
  • 15:28
久しぶりに熱が出ました。
そして久しぶりにブログを書きました。


春分の日と時を同じくして出た熱で、楽しい布団の国に入ることになりました。

春は肝臓が活発に動き、浄化作用が忙しいと言いますし、冬の寒さで固まっていた体が弛み始めていた過程で出た熱は、弛みを応援するかたちとなっています。


年度が変わろうとしているこの時、色々なものがリニューアルの中にいるのだなぁと思います。古いものを整理して、不必要なものを捨て、大切なものを整頓し直して新たにしまう。「棚卸し」のときとも言える気がします。

棚の奥から随分古いものが出てきたりする棚卸し。

体の棚卸しとも言える熱発からは、心臓のドクンドクンという強さが再発見され、続いて心、あるいは記憶の棚卸しもしたくなり、すごく久しぶりに、以前書いていたブログを読み返したのでした。

棚の奥ならぬブログの初期のころから、映画の感想をいくつも見出だしました。

こんなことを考えていたんだなぁという距離感を感じるとともに、まるで他者の文章を参考にするように今の自分に引き寄せて読みました。

その一時期、人間の心と体の関係性についての視点でずっと映画を追っていたようでした。

その中で「サイボーグ」についての文章が今の僕にひっかかってきました。
自分の体をすごく意識することが促される「サイボーグ」という視点のように感じます。


今回の棚卸しをしながら、次へと向かう景色が見えてきているように思うのでした。

玄関そばの、

  • 2011.10.08 Saturday
  • 12:54
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風取り口。

あるいは避難口!?

最寄り駅は、

  • 2011.10.08 Saturday
  • 10:33
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新潟のひとつ隣りの越後石山という駅です。

新潟駅に到着

  • 2011.10.08 Saturday
  • 10:10
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9時50分すぎ、新幹線で新潟駅に到着。

これからPARC自由学校「コミュニティ・カフェを作ろう」クラスの一泊の研修プログラムが始まる。

このあとまずは「うちの実家」へ行く。

介護の仕事をやってきて、まちづくりの必要性を感じ、それから6年位かかって今こうした講座を受講するに至ったので、そのカリキュラムの中で、共に助け合う居場所として創られた「うちの実家」に来ていることが、ようやく手元にきたおっきいジグソーパズルのピースのような意味を持って来るように思う。

放射線と私

  • 2011.09.06 Tuesday
  • 08:39
人の体は

その90%が空間だという


電子は原子核の周りを

惑星のようにグルグルと回り

その外周までの空間を

原子はパーソナルスペースとしている


僕の体の細部では

電子はクルクル動き回り

そうしてまとめられた原子達が分子となり

また様々なまとまりが出来てアミノ酸となり

たんぱく質となり

組織となり

人体となっている


わたしという現象は

仮定された有機交流電燈の

ひとつの青い証明です

いかにも確かに灯り続ける

因果交流電燈の

ひとつの青い証明です


私の体は関係性の織物

放射線という名の

自由になった中性子たちは

プラスもマイナスも電荷を帯びていないゆえ

電子のマイナスにも

陽子のプラスにも影響されず

私の体を突き抜けて行く

私の織物を刺し抜けていく

はたまた90%の空間を抜けて行くのだろうか

その隙間を

飛んでくる中性子の大きさは通過できるのだろうか

少なくともこれまでは

放射してくる中性子に

人体は非常に小さく

破壊されている


人類は

非常に小さきものに襲われている

リトルピープル

陰でも陽でもない

自由を得た中性子は

シャドウとして

いったい何の統合を

求めているのか

夏至の日のキャンドルナイトのように

  • 2011.06.25 Saturday
  • 14:15
闇の中でこそ、明かりそのものが見える。

普段は、明かりがベースにあってモノを見ているわけで、明かりそのものを意識しない。


闇、病み、止み、様々な「ヤミ」に立ち位置を移すことで、物事の本質が見やすくなってくる。


成長が止み、体が病み、認知が闇の中にあるように見えるお年寄りに寄り添うことで、やはり視界は分かりやすくなる。


お年寄りは自らの人生の中でその困難をどう解決するかと抗って、もがいているわけですが、その困難を与えているのは社会の側ではないか、と考えた時、僕たちの仕事はもっとわかりやすくなっていきます。単純にいうと、老いることすらままならないこの社会を変えていくところに僕たちの仕事の本質があるのでしょう。


上記の文章は3年前、定期購読していた介護冊子の中で、自分がアンダーラインを引いていた箇所。

それを読み返して、これもやっぱりシステム思考だなぁと思った次第。
社会と言っているのは、システムのこと。

病んだ個人を治そう、というよりも、病んだ個人に象徴されているシステムの問題を、換えていこうということ。


さて、「システムと事象」は「明かりとモノ」に似てないかな?

闇の中で明かりそのものが見えてくるように、システマチックな自らの活動を止みの中に置いてみよう。

システム思考

  • 2011.06.25 Saturday
  • 13:10
なにか問題があったときに、「あなたが悪い」「あいつが悪い」「世間が悪い」「あの出来事のせいだ」と、人や個別の事象の責任に帰するのではなくて、「問題があるのはシステムだ。だから、たとえ人が変わっても、構造が同じなら同じ問題が起こる」と考える。人を責めるのではなく、問題をいろいろな要素の絡み合ったシステムとして考えます。その「構造=システム」自体を変えないと、いくら人を取り換えても、いくら人を非難しても、うまくいきません。
一つの問題も、いろいろな要素が関連しあっているシステムから起こっていますが、システムには、「ここを押せば動く」という、小さな力でも「てこ」を使うように、ぐっと大きなものを動かせるような点があります。それを探して、効果的にシステムを変え、問題をモトから断つための考え方です。


個人の心の中の、コンプレックス(感情で彩られた出来事の複合体)というのもここでいうシステムと同じだなぁとつくづく思った。

サイコセラピーでもその繋がりを、自由連想や催眠やインナーチャイルドワークやで紐解いていって、「ここを押せば動く」という点、あるいはどうしてそういう連鎖になっちゃったのかという、いわゆる分岐点に立ち、そうじゃない選択肢を今あらためて選択する、ということをします。


どちらにも共通なのが、この世界の事象を「いろいろな要素の絡み合ったシステムとして捉えること。」


つまり世界は「ものがたり」なんだ。


さて、このものがたりが、人間だけじゃなくて、この連鎖に参加している植物さんや虫さんや動物さんたちみんなにとって気持ちのいいものでありますように!

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