「彼ら」との出会いから「わたし」は「わたしたち」となるのか?
- 2014.09.12 Friday
- 13:34
最近、個人と全体、ということについて何度か思うことがあり、『1Q84』を少し読み返しました。
(天吾)の最初の章を読んでいて、さっそく気づかされることがありました。
その章は、たぶん1歳半の記憶だと彼自身が推測するイメージが突然やってきて、発作のような症状に見舞われる、そういう場面から始まっています。
その出来事のシークエンスの最後は、こう終わっています。
「これを見ろ、と彼らは言う。これだけを見ろ、と彼らは言う。お前はここにあり、お前はここよりほかには行けないのだ、と彼らは言う。そのメッセージが何度も何度も繰り返される。」
いわゆる潜在意識からの訴えを語ったこの文章の、その「潜在意識」の人称が複数形なんです。
「おまえ」でもなく「きみ」でもなく「かれ」でもなく、三人称複数形なのです。
このことに、ものすごく示唆を受けました。
そこからこうも思いました。
「わたし」という顕在意識、これが自分だと思っているものも「わたしたち」としてみたらなんだか色々なことが辻褄合う気がして来るようです。
あらためて、個人と全体(社会や組織と言い換えてもいいが)、その関係のあり方を見ていこうとするときに、なんとも見晴らしのいいところへ連れて行ってくれたことでしょうか。
そもそも「わたし」という個人は、社会や世界や会社や地域やと相対しているのでしょうか。
もしかしたらそれは、天吾くんが「彼ら」ととらえた潜在意識の投影とも考えられないでしょうか。
その「彼ら」ととらえられた潜在意識の集団は、これまでのさまざまな場所と時間に起きた出来事の総体で、それが気づいてくれと言わんばかりに、こころのスクリーンに投映して見せてくる、そんな気がしてくるのです。
そして、こうも感じました。三人称複数形というものは、一人称単数形からもっとも心理的に遠い存在のような気がします。
内なるもう一人のわたしは、そのようにとても遠いところにいる、顔の分からない何者かであるということを思うと、とても切なくなるのでした。
(天吾)の最初の章を読んでいて、さっそく気づかされることがありました。
その章は、たぶん1歳半の記憶だと彼自身が推測するイメージが突然やってきて、発作のような症状に見舞われる、そういう場面から始まっています。
その出来事のシークエンスの最後は、こう終わっています。
「これを見ろ、と彼らは言う。これだけを見ろ、と彼らは言う。お前はここにあり、お前はここよりほかには行けないのだ、と彼らは言う。そのメッセージが何度も何度も繰り返される。」
いわゆる潜在意識からの訴えを語ったこの文章の、その「潜在意識」の人称が複数形なんです。
「おまえ」でもなく「きみ」でもなく「かれ」でもなく、三人称複数形なのです。
このことに、ものすごく示唆を受けました。
そこからこうも思いました。
「わたし」という顕在意識、これが自分だと思っているものも「わたしたち」としてみたらなんだか色々なことが辻褄合う気がして来るようです。
あらためて、個人と全体(社会や組織と言い換えてもいいが)、その関係のあり方を見ていこうとするときに、なんとも見晴らしのいいところへ連れて行ってくれたことでしょうか。
そもそも「わたし」という個人は、社会や世界や会社や地域やと相対しているのでしょうか。
もしかしたらそれは、天吾くんが「彼ら」ととらえた潜在意識の投影とも考えられないでしょうか。
その「彼ら」ととらえられた潜在意識の集団は、これまでのさまざまな場所と時間に起きた出来事の総体で、それが気づいてくれと言わんばかりに、こころのスクリーンに投映して見せてくる、そんな気がしてくるのです。
そして、こうも感じました。三人称複数形というものは、一人称単数形からもっとも心理的に遠い存在のような気がします。
内なるもう一人のわたしは、そのようにとても遠いところにいる、顔の分からない何者かであるということを思うと、とても切なくなるのでした。